城・城跡めぐり

目次
七尾城紀行    五稜郭・四稜郭
萩・松下村塾 長浜城
備中高松城 原城址
会津若松城 月山富田城
七尾城址
  上杉謙信の「九月十三夜陣中の作」の詩を吟じていて、どうしても行って見たくなる場所が石川県の七尾城址である。城は別名「松尾城」とも言われている。
  石川県七尾湾に面した標高300メートルの松尾山山頂にあったといわれる七尾城。もともと能登守護の畠山家の居城であったものが、1576年(天正四年)畠山氏の内紛に乗じて上杉謙信が城を攻撃したが、この時は城の守りが堅固で一旦引き上げ、翌年九月に再び攻撃して城を落とし、畠山氏は滅んだのである。その後1581年(天正九年)前田利家が能登の領主として七尾に入城するも、山が峻険過ぎるという理由から、より海辺に近い小丸山に築城したため、以後七尾城は廃城となったと伝えられている。
本丸跡の石碑 九月十三夜(上杉謙信)漢詩
  城は、廃城となって長い年月を経ており、城跡を偲ばせるものは雑草の間に残る「本丸の石垣」のみであり、唯一頂上へ行く道すがらに建てられた七尾城史跡の案内板で、当時の様子を推測するのみであった。しかしながら、残っていた石垣には山城独特の雰囲気が漂い、城を落として酒食に浸る上杉軍の勝ち誇った姿が目に浮ぶようであった。夏草と城跡が醸し出す雰囲気は、どこの城跡へ行っても常に、心をしんみりとさせるものがあり、この雰囲気に浸っている時は、何時もながら満ち足りた気分になれるのである。本丸跡に建てられた石碑に触れながら、眼下に見える七尾湾を視野に入れ、「謙信の詩」を何度も何度も繰り返し吟じた。夏草の草いきれが鼻を突いて幸福感に浸る一瞬である。
史跡案内板 往時を偲ばせる石垣 同上石碑

  

  

萩城址 1
標高143mの指月山の麓に築かれた萩城は、別名「指月城」とも呼ばれ、関が原以降毛利輝元を初代城主として明治時代まで毛利氏の居城であった。関が原の戦で西軍に加担した毛利家は石高を減らされ、この萩に移ったのだ。
萩城址 2
日本海に臨む景勝の地にその威容を誇った五層の天守閣は他の建築物と共に明治になって解体された。毛利藩の幕府に対する恨みが幕末に結実した形となり、徳川幕府崩壊の原動力となった拠点でも有った。
         


松下村塾 1
幕末の偉人吉田松陰が、開国論を中心とした近代的な国の有り方を滔滔と論じた松下村塾。蝉時雨の中、砂利を踏んで、松の木陰にひっそりと残る建物に接し、若く情熱的な松陰の姿を偲び、ここから雄飛していった高杉晋作等維新の若者たちに思いを馳せた。
松下村塾 2
歴史上は慫慂として刑場に向ったと言われているが、刑場に向う途中で辞世の句をしたためたものの、気が動転して言葉のごろが合わず、捕吏にせきたてられて、あわててその箇所に「点」を認めたと言う逸話は、平和な今に生きる者として慄然とせざるを得なかった。
      

残暑とはいえ、まだ真夏日の続く晩夏の一日、突然思い立って「萩」を訪ねた。高校時代や職場時代に前後二・三回は立ち寄った所であるが、その頃は何れも歴史や漢詩等に興味を持っていなかった為に、ガイドの説明も上の空で聞いていたような気がするし、自分で勉強しようとも思っていなかったようだ。私は何時の頃からか、城の石垣や旧い建物を見たり触れたりした時に、身震いするような感動を覚えるようになっていたのである。偉人の史跡にしても然り、この場所に、あの人が住んでいたのか、この石垣を、あの武将も見ていたのかなどと考えを馳せると,いたたまれなくなる位である。彼らが過ごした場所で、彼らが触れたと同じ空気や風に触れ、彼らが見たであろうと思われる同じ風景を、まのあたりにする時、その場で思わず涙が溢れる様な感動を覚えるのである。ましてその場で、彼らが作った漢詩を朗詠できた時の感動たるや、もう言葉では表現出来ないのである。夏の終りに松陰の遺跡に接し、私は幸せだった。

備中高松城
  以前から訪ねて見たいと思っていた岡山県の高松城を訪ねる機会があって出かけてみた。羽柴秀吉によって「水攻め」にされ、飢餓と病気による戦意消失の果てに、城主「清水宗治」が家臣の命と引き換えに切腹し、無念の内に城を明け渡したと言う故事が伝えられているこの城。平地に作られた城が水攻めに合うなどと、現地の事情を知らない私には信じられない事であった。が、現地へ行って、城跡を見て回り、説明してある建て看板や史跡の資料などを読んでいるうちに、おぼろげながらその事情が飲み込めてきた。と同時に、織田信長に高松城攻略を命じられて、高松城の立地条件を読み取り、1人の兵士も使うことなく一発の銃弾を撃つことも無く、城を水で包囲して、相手が音を上げるまでじっと待ち、最後には命じられたとおり城を攻略した秀吉の知略と緻密さ、冷酷さ、意志の強さ、を感ぜずに居られなかった。
  一説に、秀吉方軍師の黒田如水の発案とも言われているこの戦法は、南に足守川が流れ、他の三方は広大な沼地が広がっていて、さながら絵に描いた浮島のような要害を形成する立地の場所で、「外部への通路として使われていた橋」を押えれば敵は容易に攻め込めない、いわゆる難攻不落といわれていた城であったが、秀吉はこの立地を逆手に取り、平地に「全長約4キロメートル、高さ約7メートル、底部の幅約21メートル、上部の幅約10メートル」の堤防を11日間で築き上げたと伝えられている。もちろん近郷近在の農民を当時としては高い給金で雇い、昼夜兼行で土俵を積み上げていった結果の築塁工事であったと言われている。
  更に悲惨に思えたのは、城主清水宗治の切腹の方法である。秀吉の命により、兄と毛利の目付け役等と小船に乗って、秀吉が待ち受ける蛙ケ鼻へ向かい、船上で謡曲「誓願寺」を舞い謡った後に、切腹して果てたと記されている。しかも秀吉はこの時、主君信長が、本能寺で明智光秀の謀反に遭って落命したと言う情報を耳にしていたのであるが、そのことは一切表に出さず、あくまでも泰然自若を装って、宗治の自害を見届け、宿敵毛利にも備えていたのである。宗治の自害を契機として、秀吉は毛利と和睦を結び、2日間で64キロメートルの世に言う「中国大返し」の大行軍をやってのけ、明智光秀を討ち、天下統一への足がかりを築いていったのである。                          
史跡を記録した看板 清水宗治の墓 築塁跡
清水宗治の墓 高松城天主跡
会津若松城
  白虎隊でその名を知られた「会津若松城」・別名「鶴ヶ城」。時代が江戸から明治へ大きく変わろうとしていた最中、この白虎隊の悲劇は起きたのだ。第九代藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に任ぜられ、その職務を全うする為に容保は長州・薩摩両藩の尊王攘夷の志士を徹底して取り締まったのである。この為に政権をとった政府軍からは、会津藩そのものが「朝敵」とみなされ、政府軍(薩・長連合軍)の総攻撃を受ける事になったのである。
秋空に雄姿を見せる「鶴ヶ城」
  鉄砲・大砲等の飛び道具の武器が無かった時代には、この五層(以前は七層だったと言われている)の堂堂たる天守閣は、立派な城砦として対抗できたであろうが、西洋列強の武器を振りかざして攻撃してくる政府軍(薩・長連合軍)には所詮抗し切れず無念の敗戦を迎えるのである。特に籠城している武士達に脅威を与えたのは、1700メートルも離れた小田山から城を狙って撃って来る「アームストロング砲」の威力だったと言われている。初めは女性が主体となった籠城であったと言われているが、圧倒的な政府軍(薩長連合軍)の前に約2ヵ月の籠城戦の後、終に城は明け渡されたのだ。
  さて、此処で「白虎隊の自刃の経緯」について触れて見たいと思う。16歳や17歳からなる白虎隊二番士中隊は,戸ノ口原で政府軍と交戦していたのが、その戦の激しさからか、その内の20名が本隊とはぐれて迷ってしまい、飯盛山にたどり着いた。山から城を見た時、彼等の目に映ったのは炎と煙に包まれた「城」であった。実はこの時に燃えていたのは、城ではなく城下の建物群だったのである、が、少年達は城が燃えて焼け落ちたと思い込んで「もはやこれまで」と覚悟を決めて、夫々が相手の喉を突き、或いは首を切って互いに自刃したと言われている。
  この時ただ一人だけ生き残った少年が居て、この人の証言が元となって、現在の白虎隊の話が伝わっている、という事が世の通説となっているようである。
  しかし私は、実際に飯盛山から市街地や、城の方角を見下ろしてみて、「果たしでそうであったのだろうか?」という疑問に突き当たったのである。20名もの少年が居て、皆がみな「城が焼け落ちた」と信じ込んだのであろうか、という疑問であった。煙の間から、焼けていない城の姿を垣間見た少年が何人かは居たのではなかろうか、と思いである。 ならば何故彼等は自決の道を選んだのか。
  純真な少年達は、朝敵の汚名を着せられた挙句、政府軍の軍門に下る屈辱に最後まで抵抗したかったからではないだろうか朝敵のまま生き恥をさらしたくない、憎き政府軍に屈服したくない、この必死の思いが集団自決という最後の手段を選んだのではないだろうか、と信じていたいのである。
  彼等の死後政権をとったのは言わずと知れた政府軍(薩・長連合軍)である。得てして歴史上の事実というのは、時の為政者によって、都合のいいように作り変えられてしまう事が多い、という事は洋の東西を問わず世の常識であろう。線香の煙の耐えない隊士たちの墓に向かい、飯盛山の静寂に身を委ねた時、私は、かってこの場所で行われた自決の場面を想像して慄然とならざるを得なかった。
  約2ケ月の籠城の後落城した城の中では、女性、老人、子供を含めて総勢5000人とも言われる人達が犠牲になったのである。朝敵の汚名を着せられたまま・・・・。
  重苦しい見学の旅ではあったが、偶然お祭りの日に行き合わせ、素晴らしい武者行列を見せてもらった事が、私の心の中で、一服の清涼剤として今も脳裏に残っている。
白虎隊の墓 若松城入り口 記念館のパンフ
前同 祭りの武者行列 左同
  記念館の中には白虎隊に関する品々15000点が展示されている。上のパンフレットは白虎隊の服装や籠城中に活躍した女性の写真、唯1人蘇生した隊士の写真、新撰組土方歳三の写真等が紹介されている。
  城は、廃城となって長い年月を経ており、城跡を偲ばせるものは雑草の間に残る「本丸の石垣」のみであり、唯一頂上へ行く道すがらに建てられた七尾城史跡の案内板で、当時の様子を推測するのみであった。しかしながら、残っていた石垣には山城独特の雰囲気が漂い、城を落として酒食に浸る上杉軍の勝ち誇った姿が目に浮ぶようであった。夏草と城跡が醸し出す雰囲気は、どこの城跡へ行っても常に、心をしんみりとさせるものがあり、この雰囲気に浸っている時は、何時もながら満ち足りた気分になれるのである。本丸跡に建てられた石碑に触れながら、眼下に見える七尾湾を視野に入れ、「謙信の詩」を何度も何度も繰り返し吟じた。夏草の草いきれが鼻を突いて幸福感に浸る一瞬である。
五稜郭と四稜郭
  北海道函館に行った人なら、必ずや訪れるであろう場所の1つに五稜郭がある。明治新政府に対抗して武装蜂起した榎本武揚が、戦の初めごろに一時占拠して、自らが総裁となり北海道政府樹立を宣言したところである。星型の五つの突き出た角を持った城郭で、周りは堀に囲まれていたものの、建物自体が如何なる構造であったのか定かではない。当時幕府が、日米通商条約を締結して、それまでの鎖国政策を放棄し、長崎や兵庫や横浜と同時に函館の港も開港して外国船の出入りを認めたのであるが、函館には城のような防御設備が無かったところから、港や函館の市街地を守護すると言う目的で急遽作られたのが五稜郭だと言われている。
  幕府の命を受けて、この五稜郭の設計を担当したのが、蘭学者の武田斐三郎と言う人であったと言われている。この武田と言う人は、若い頃に緒方洪庵から西洋の知識を学んだ人で、戦では大砲が頻繁に使われていた16世紀ヨーロッパで建設されていた稜保式の要塞の技術を取り入れた、日本では始めての設計で、1857年(安政四年)に着工して完成まで七年の歳月を要したと説明されている。
  もともと外国からの侵略を防ぐ目的で作られた五稜郭が、戊辰戦争に端を発した函館戦争で、日本人同士が殺しあう場所になろうとは、何と言う歴史の皮肉であろうか。建物は1872年に札幌の開拓使庁舎に利用されるために取り壊されたと記録されている。私がここを訪ねたのは4年前の晩秋で、小雨交じりの肌寒い1日でした。
  展望台や、花壇の周辺で散策する人達の姿を見ていて、かってこの場所で、国の運命を担って命を掛けて争った人達が居たと言うことが、何とも信じられないような、のんびりとした奇妙な錯覚に捉われたのを覚えている。
展望台窓から五稜郭を望む 左同(小雨の風景) 展望台傍の展示大砲
 
展望台で休憩中に、偶然にも今まで聴いたことも無かった言葉を耳にした。傍に居た観光客の会話で「近くに四稜郭というのがある」と言う言葉であった。初めは半信半疑だったが、売店の人に尋ねた結果、本当に有るということが分り、直ちに訪ねる事にした。五稜郭から車で15分位の所であった。
  「四稜郭」・・・・「郭」と言っても石垣や、構築物が有る訳でもなく、土塁を築いた所謂「塹壕」のような形のもので、解説案内板によると、「五稜郭の背後の防備を固めるために作られたもの」と言う事であった。四方が高さ1.5メートル位の土塁に囲まれ、その中は、ソフトボールの試合が出来るぐらいの平地になっており、土塁には短い草が生い茂っていた。「人が身を伏せるのに丁度よいぐらいの高さの土塁だな」と直感した。小雨けむる中、私は「この土塁に身を伏せて押し寄せる政府軍を迎え撃ったであろう兵士達の決死の姿」を思い浮かべていた。ひょっとして「京都から北海道まで戦に来て、この地で戦死したと言われている新撰組の土方歳三も此処へ来たかもしれない」等と勝手な想像をめぐらせながら、北の大地で主義に殉じた者達の悲壮な生涯に思いを馳せ、平和な今に生きる自分の幸せを痛感した。と同時に「五稜郭」の名前は知っていても、「四稜郭」のことを知っている人は少ないだろう、なんて、ちょっと得した気分になってここを後にした。肌寒いどんよりとした1日だった。
案内板の前で 四稜郭石碑 内部と土塁の様子
案内板
長浜城
  織田信長が湖北の浅井一族を滅ぼした時の勲功として、豊臣秀吉に小谷城を含めた旧浅井領地12万石を与えたが、秀吉は峻険な山城・冬の積雪等を考慮して小谷城を嫌い、約7キロメートル琵琶湖寄りの長浜に城を構えた。この城が「長浜城」である。築城の建造物は小谷城のものが総て使われたと伝えられている。以後40年間湖北の空にその雄姿を見せていた城であったが、豊臣家の滅亡と、徳川家康の一国一城令等の為に、この豪華絢爛を誇った湖北の名城も浅井一族の小谷城と同じ運命をたどり、その建築物は取り壊された後に琵琶湖を船で運ばれ、石垣までもが彦根城の築城に役立てられたと伝えられている。
  この城は、秀吉の居城とはいっても出世の緒に就いたばかりの秀吉は、相次ぐ戦で殆ど城には帰らず、その間正室の「おね」が気丈にも城を守っていたらしい。とは言っても「おね」はこのころはまだ20歳代の若妻であり、秀吉の側室達に対する嫉妬はかなり強烈であったと伝えられており、その当時信長が「おね」に宛てた手紙で「秀吉がそなたを不足に思うのは言語道断である、そなたほどの女を秀吉は二度と娶る事は適うまい。であるから、今後は何処から見ても奥方然として焼もちなど起こさないようにしなさい」と言うような内容の事を書いて送り、「おね」の嫉妬をたしなめたと言う逸話が伝えられている。しかし、後世陰で秀吉を支えた「おね」の人望は、この長浜時代にその基礎が出来上がって行ったのではないか、と言われるくらい加藤清正や福島正則といったそうそうたるメンバーも、この頃の「おね」の気さくな人柄に傾倒していったと言われている。、
城中の井戸の遺構の石碑 鉄筋の城郭 庭園跡
本丸跡
  現存する長浜城は、近年鉄筋コンクリートで建て替えられた城で、その昔実際に城が建っていた場所は、今の城郭の有る場所よりも更に琵琶湖の水辺に近い場所であった事を伝える石碑が建っていた。湖面を飛び去る水鳥の声が、一瞬、豊臣家の滅亡を嘆く「おね」の声よりも、秀吉の子供が生めなかった「おね」の嘆きにも聞こえたのは私の錯覚か。、

原城址
  天草四郎こと益田時貞を中心としたキリシタン農民の一揆「島原の乱」で有名な原城。もともと今回の九州旅行の目的の1つが、この原城探訪であった。隣の島原城主であった板倉重政の過酷な重税と、2年前からの凶作に追い詰められた農民が、最後の心の拠り所として求めたのが、キリスト教であった。信仰を重ねて行く内に誰言うとも無く「何時か必ず天から救いの神が現れる」と言う言葉が広まっていった。こうした折、農民達の前に現れたのが天草の豪農の家に生まれた「天草四郎(益田時貞)」だった。小さい時から並外れた美貌と才智の持ち主であった四郎は、長じて島原半島の農民の間を回っていく内に、重税と凶作に苦しむ農民の守り神として尊敬されるようになっていった。1637年10月に島原半島南部で発生した一揆は、瞬く間に全島へ拡大した。初めは島原城を攻撃していた一揆勢は、城が容易に落ちないと見るや、近くの廃城であった「原城」を拠点として立て籠もった。この一揆、初めの内は重税と凶作に苦しむ農民の純粋な気持ちから発した一揆であったが、時が経つにつれて、一揆側に集まってくる農民に対して、キリスト教への入信を強要したりした事等もあって、次第にその性格は幕府権力に対する宗教一揆へと変貌していったのである。
  当初幕府は、一揆勢の力を見くびって島原近隣の3藩に鎮圧を任せていたものの、板倉が戦死するなどその抵抗の強さに、事の重大さを悟った「時の老中松平信綱」は、全九州の大名に鎮圧令を出して、城を完全に包囲し、城内の食料が尽きるのを待って、1638年2月に総攻撃をかけ子供を含むほぼ全員を殺害して城を落としたと言われている。この時「原城内」には老若男女合わせて28000人弱のキリスト教農民が籠城していたと伝えられており、天草四郎は捕らえられその首は長崎で晒され、彼の姉妹も処刑されたと伝えられている。この一揆をきっかけにして、それまで、「他藩の一揆には越境して対処してはならない」と言う定めが有った武家諸法度の定めを、一揆に際しては状況に応じて越境して鎮圧できるように解釈を改めたと伝えられている。
  原城天守閣の址に立ってみても、当時の様子を偲ぶものは何も無く、唯青草だけが生い茂り、折からの風に、悲惨な死を遂げた籠城者達の霊を弔うかのごとく、静かにその姿をなびかせていた。眼下に見える島原の海は、何処までも青く、そして静かであった。
島原城 天草四郎石像 天草四郎墓石
阿蘇大観峰
全同
  私が原城址を訪ねた時、周りの石垣が掘り出される工事が行われていたので、近くに居た人に尋ねたところ、「島原の乱以後、原城は取り壊され、石垣も土台も全てが、島原城へ運ばれたと伝えられていたのが、今回の発掘で、実はそうではなく、壊されたのは城の建物だけで、石垣は単に上から土をかぶせて覆い隠してあった事が分ったのです。画期的な発見です。」と言う説明が返ってきた。どうやらこの人、地元で文化財に携わっている人らしく、端正な身なりの初老の人で、掘り出された石垣を愛しむ様に見詰ながら説明してくれたのが印象的だった。何れ後日何処かで、この記事を報じる、新聞やテレビのニュースに接する時がある事を期待しながら原城を後にした

月山富田城
 中国の雄「毛利氏」と覇を争って敗れた戦国大名の1人「尼子氏」。その居城であった「出雲の月山富田城跡」を尋ねたのは6年前の盛夏でした。松江の道後温泉を訪ねた折に、ふとこの地方の歴史に登場する「尼子一族」の居城であった「月山富田城」の事を思い出し、ぜひこの機会に見ておきたいと思い立ったのです。松江から車で40分も走ったでしょうか、目指す月山が見えてきました。麓の駐車場に車を止め、徒歩で歩くこと約45分位。かなりの急な坂を上り詰めて天守跡へ。城跡は、夏草の中に崩れかかった石垣を覗かせながら私を迎えてくれました。夏の熱気と草いきれが強く印象に残っております。地元では「毛利に滅ぼされた悲劇の主君」と云うように言い伝えられているようで、一時は天下の覇者も夢ではないと言われるまでに山陰道・山陽道の2道に亘る強大な勢力を誇っていた尼子氏。大永初年頃(16世紀の初め頃)の事で、尼子清定(貞操)の子供経久がその人でした。時に経久65・6歳頃の事です。軍記物には「十一州の太守」とまで言われた人です。だがその孫の晴久は前後の見境無く毛利に戦を挑んで敗れたり、永禄3年(1560年)その子義久が若干21歳で後を継ぎますが、毛利との戦が始まり、永禄6年から9年までの間尼子勢は富田城に篭城します、。が、遂に万策尽きて永禄9年11月21日に尼子城は毛利の手に陥落するのです。此処で登場するのが「三日月武者」として勇名を馳せた、かの「山中鹿之助」でした。有名な「天よ、我に艱難辛苦を与え給え」の信条の元に、三日月型の兜をかぶり自慢の槍を駆使し、滅びた尼子勢を再興すべく奮闘するのです。鹿之助は織田信長に助成を求め中国攻めに奮闘する羽柴秀吉の指揮下に入ります。が、尼子残党が立て籠もった上月城(兵庫県上月町)が陥落すると同時に尼子勢の戦闘は終わり、捕われた鹿之助は備中阿井の渡しで殺されます。天正6年7月17日の事です。
                永禄九年 秋半ば     難攻不落と歌われし
                尼子の城は         遂に堕ち
                槍一筋に           命を懸けた
                三日月武者よ        何処へ行く
地元の人達に歌われ、レコードにもなっている歌謡曲の一節です。
 尼子勢を歴史の上から見た場合、「疾風の如く戦国大名の座に駆け上ったものの、その衰退も同じような速さで滅んでいったと」、地元の観光課では結んでいるのです。このような幾変遷を経て来た尼子城の城跡に佇む時、其処には夏草が生い茂り、昔の面影を残すものは「草葉の間に姿を現す崩れかかった石垣」のみでした。地元ではこの城跡を再興して観光の目玉にしようと云う計画もあると聞きましたが、私は尼子氏の盛衰を考える時、鉄筋コンクリートの無骨な感じのする城郭を作るよりも、この城跡はこのまま草葉の陰に埋もれさせておいた方が、尼子氏の盛衰に似合っているのではないか、と、しみじみ思ったのです。城跡には「生い茂った夏草がよく似合います」中国地方も今では大きな橋で九州と繋がってしまい陸続きの状態になっております。当時の尼子一族や毛利勢がこの現状を見たら一体なんと思うのでしょうか。不思議な気がしてきました。以下その様子を。
月山頂上から松江湾を 大手門跡 登城口の案内板
天守へ続く道 頂上の案内板 天守跡
前同天守跡へ通じる階段 関門海峡大橋記念碑 同大橋を望む

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