中国漢詩紀行(2)
    (・長江・三峡下り・白帝城・赤壁・上海の旅)
    

来年にもダム建設のために水没すると言われている三峡下りに出かける事になり、平成14年12月1日から8日間の予定で「長江三峡クルーズ」をメインとした中国旅行に出発した。前回と同じで名古屋から上海へ飛び東京からのグループと合流して上海で一泊。

二日目に約2時間30分の飛行機移動で重慶飛行場へ。重慶の市内観光。小高い丘の上にある「鵝嶺公園(ガレイコウエン)に上り、此処から遥か下を流れる「長江」と重慶の市街地を眺め、全長1100mの長江大橋(写真下参照)に立ち寄った。生憎の霧で見通しは良くなかったが、霞んで見える雄大な長江と長江大橋の眺めは、却って墨絵暈しの様で風情を感じた。その日は重慶泊まり。
長江大橋(対岸は霧で霞む) 鬼城の正門前 鬼城裏庭の高塔
三日目。いよいよ今回のメインである「長江三峡クルーズ」に出発だ。「国賓号」と名付けられた大きな遊覧船である。四階建ての堂堂とした船だ。私の部屋は三階である。この部屋で今晩と明晩の船中2連泊である。広い船窓から船の速度に比例して後ろへ移動する陸地が見える。両岸の所々に「ダム完成時に水面がここまで来る」と言う事を表示する標識が立てられ、住人が立ち退いて空になった廃屋が崖の中腹に点在する。ダム工事のための150万人の大移動だそうで、既に10年前から始められているとの事であった。ある丘の上には最近建てられたと思われる近代的な住宅が玩具の家のように並んでいた。湖底に沈む家を離れた人達が新しく構える家だそうだ
途中で「豊都(ほうと)」へ上陸。「世界中の死んだ人がここへ集まってくると」と言いい伝えられている「鬼城」へ立ち寄り、地獄めぐりを経験した。死後の世界のいわゆる地獄を人形を使って再現してあったが、人形とはいえそのリアルな出来栄えには鬼気迫る雰囲気が漂っていた信仰のなせる業であろうか。その夜は船中泊第一日目で、夕食時に船長主催のパーティが催され、単調な船旅に色を添えてくれた。規則的なエンジンの音を響かせながら、船は川面を滑ってゆく。時々行き交う船の汽笛が谷あいにこだましては消えてゆく。静かな船旅である。

休憩中の籠 白帝城の山の遠景 白帝城への急な石段

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四日目は午前中に憧れの「白帝城」を訪問した。急な坂道の上 の「白帝城」。上り口の港まで船が横付けされ、後は急な細道を徒歩か、「籠」で登ると言う行程である。私は歩きには自信があったが、この際話の種だと考えて、籠で登ることにした。三百元で二人の男が担ぐ籠(写真参照)に乗った。初めのうちはそうでもなかったが、勾配が急になるにつれて後ろを担ぐの男の吐く息が後頭部に迫ってきて何と無く落ち着かなかった。途中二回の休憩をとり「白帝城」(写真参照)にたどり着いた。徒歩で登ってきた人は皆かなり汗をかいていたようである。かって三国時代の武将「劉備」が志半ばにして病に倒れて後事を諸葛孔明に託した場所、更には若い頃からの夢であった官吏への登用を心待ちにしていた李白が一時身を寄せていたと言われる「白帝城」。遂にこの場所へ来たのである。感無量だ。
白帝城正面

前漢の末期に公孫述がこの地に王国を

劉備託孤の場面

築いた際に自らを白帝と名乗った事からこの名が付いたと言われる「白帝城」
三国志の英雄事からこの名が付いたと言われる「白帝城」。李白の「早に白帝城を発す」の詩が独りでに口をついて出た。三国志の英雄劉備を祀る白帝廟には、劉備が 盟友諸葛孔明に息子劉禅のことを託した有名な「劉備託孤」のエピソード三顧の礼で諸葛孔明を迎えた有名な場面が塑像で紹介されていた。(写真参照)全中国にその人ありと尊敬された劉備の寂しい生涯や、官僚に憧れて遂にその夢を果たせなかった詩聖李白を偲びつつ、「白帝城」を後にした。帰りも同じ籠で下山したが、港に着いたところで籠を担いでいた男の人が「チップ・チップ」と連呼したのはご愛嬌か。再び「国賓号」へ。船中で昼食をとり 船はそのまま三峡へ。           

瞿塘峡入り口
瞿塘峡からの遠望
左同瞿塘峡入り口
瞿塘峡左岸の刻像

最初の峡である「瞿塘峡」(クトウキョウへ進入。全長33kmの山水画の始まりである。川幅が狭くなり、両側の岩肌が一段と垂直に、そして峻険に目の前に迫ってくる。(写真参照)この辺りから小雨が降りだして、寒さが感じられるようになってきた。船上でとっさに買い求めた雨具を身に着けた。続いて「巫峡」(ふきょう)に入った。


全長40kmのダイナミックな風景である。(写真参照)小雨がけむって山水画の風情が否応無しに目の前に展開していく。此れで猿の鳴き声が聞えたら文字どうり「両岸の猿声啼いて止まざるに」の世界である。かって李白・白居易もこの風景を眺めたに違いない。川幅が狭くなり流れが浅くなったところで、小船に乗り換えて「神農峡」(シンノウキョウ)めぐりに出発。雨は相変わらず降っている。
一艘の船に十名位の単位で乗り換え、長江から外れた川幅の狭い支流に舟が進んでいきます。水嵩もそんなに深くはなく、川底が見えるくらいで流れの両側には砂利の浜が迫っていた。と、突然舟の動きが止まり、それまで気づかなかったのですが、舟のへさきに乗っていたと思われる三・四人の男たち が砂利の浜に飛び降りて、一本の綱を引きながら自分たちの乗っている舟を川上へ引っ張り始めました。艪をこぐ船頭のほかにこの男たちが同じ舟に乗っていたようです。男たちは時々掛け声とも歌とも取れる声を張り上げて、力をあわせて舟を引っ張っていきます。(写真参照)

土家族の船曳
左同
神農峡の遠景
神農峡の中流付近

流れの深いところへ来ると上手に舟に飛び乗り、浅瀬へ来ると又飛び降りて舟を引く。この動作の繰り返しです。同乗の添乗員の説明で、この男たちは「中国奥地に住む少数民族の土家族(トカゾクドシャゾクの人達で、この仕事で生計を立てているとの事でした。ちなみにお手当ては日本のサラリーマンの数分の一相当額だそうです。日本ならさしずめモーターボートか腕のいい船頭がかっこよく舟を操るところでしょうが、こうやって原始的な方法で舟を引っ張る姿を見ていて、一抹の哀れみに似た感情を抱いたのは独り私だけだったでしょうか。
 
後ろに続くほかの舟も同じ様に男たちに引っ張られていたのです。見上げるような断崖絶壁の谷間を充分堪能した後、絶壁の到る所に取り付けられた「ダム冠水時」の水位を示すマークや文字を見ながら「国賓号」に戻りました。「軽舟既に過ぐ万重の山」の風景は、小雨の中寒さにもめげず下半身をパンツ一つで舟を引っ張ってくれた男達の姿と、そのもの悲しい掛け声と共に今でも私の脳裏に去来します。


神農峡上流 左同遠景
船は最後の峡である「西陵峡」(写真参照)にさしかかりました。日暮れの早い谷あいの事で、しかも小雨交じりの船旅に少々疲れが出てきた感じでした。船のガイドが時々両岸の岩肌を指差して説明しておりましたが、夕もやの中にケムッテ見える絶壁に、とても遠い異国へ来たんだなという気持にさせられました。船は静かに夕暮れの長江を下って行きます。二回目の船中食で夕食をとり船室へ引き上げました。こうして今回の旅のメインである三峡下りは無事に終わったのです。
五日目は午前中に「茅坪」と言う船着場で下船。旅行会社手配のバスで「荊州」へ。荊州古城や博物館を見学。蜀の武将「関羽」が築いたと言われる古城に三国時代の古をしのびその夜は荊州泊。この途中で、世界的なダム工事をやっている「三峡ダム」に立ち寄り、工事の現場を目の当たりにしてきました。

六日目「赤壁」探訪です。前207年に三国時代の武将劉備が三顧の礼で迎えた諸葛孔明の唱える「天下三分の計」に従って江南・呉の孫権と手を結び、翌208年に曹操を破ったと伝えられる古戦場「赤壁」の見学である。荊州からバスで約三時間。長江の川底を走る無舗装の道路をバスは喘ぎながら走ってゆく。相変わらずの小雨模様で寒さが身にしみる。漸く船着場に到着し漁船を改良したような小さな船に乗り換え、今度はモーター付きのエンジンでかなりのスピードで走ってくれたが、船の構造を見ている内に、どこかの国の難民が日本近海に漂着した時のような光景を連想してしまった。 
 
赤  壁
赤壁の船着場と渡し舟 赤壁の案内地図 周瑜の巨大な立像
赤壁(崖中央の赤い部分) 左同と疲れた私 船着場の遠景
渡し舟 三国志宴の食卓 左同
    
十人位が狭い船底のようなところに押し込められたからである。ともあれ対岸の「赤壁」に到着した。今私は、かって劉備や諸葛孔明が闊歩した赤壁に立っている。「一面の東風百万の軍 当年この所三分を定む」袁 枚の「赤壁」の詩が口を衝いて出る。小雨の中「赤壁」(写真参照)を探索した後、周瑜の像・拝風台・陳列間などを見て廻った。言ってみれば我国の「関が原」や「屋島の浜」「天王山」「長久手」等の古戦場と同じ様な場所なのである。長時間のバス移動と寒さとで、この辺りから少々体調がおかしくなり、日本へ帰りたいなと思っていたのを思い出す。夕食は武漢市内で「三国志宴」(写真参照)を味わったものの、「和食恋し」の私には一寸胸のつかえる夕食でした。その夜は武漢泊。
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黄鶴楼(崔 )


赤壁(袁 枚)

黄鶴楼 黄鶴楼からの展望 前 同
黄鶴楼 展望楼から東方を 左同(長江大橋を望む)
湖北省博物館
七日目は朝から武漢市内の観光で、「黄鶴楼」「湖北省博物館」を見学。「黄鶴楼」は昔の建築物と期待していたのですが、度重なる国内の戦火や第二次大戦等で何回も消失した後、鉄筋で再建されたものと聞かされ少なからずがっかりしました。頂上の展望楼へ登るエレベーターが、日本企業の援助によって出来たものと聞かされ更に驚きました。ただ展望楼からの長江や長江大橋の眺めはどんよりとした空模様にもめげずこれぞ中国といった感のある雄大な眺めでした。午後は武漢空港から上海へ、前回の旅行で訪問した豫園・豫園商城・外灘などを見学し夕食は小籠包子等で腹ごしらえしその夜は上海泊り。
上海の夜景(1) 上海の夜景(2) 上海の夜景(3)
上海空港にて
撮影前に筆談で「人民解放軍か紅軍か」を尋ねたところ、始めに「中国武警」と書いた後に「青海省武警」と書いて答えてくれました。愛想のいい人でした。
これから故郷へ帰るところだと言っておりました。

翌八日目は上海から空路名古屋へ。こうして「三峡下り」をメインとした八日間の旅は終了。
今回の旅で最も思い知らされた事は「水」の用意だけはは絶対に疎かにするなという事でした。飲料水に限らず洗顔時の歯磨き用の水、嗽用の水等、全ての水を出来る限り日本から準備して持って行った方が安全であるという事です。体調不良のまま小雨交じりの「赤壁」を、外見は何食わぬ顔で見て廻ったほろ苦い経験と共に三峡への旅は一先ず終わりました。